近代日本文学をする代表する歌人・石川啄木。
各地を転々とし漂泊の歌人とも呼ばれる啄木は、ほんの一時期ですが札幌にも滞在していたことは、あまり知られていません。
歌集『一握の砂』には札幌にゆかりがある5首が収められていて、その歌は啄木らしい率直で心に染み入る魅力とともに、啄木が滞在していた明治後期の札幌のまちの情景にふれることができます。
『一握の砂』にある札幌ゆかりの短歌5首と啄木の歌碑・史跡全5カ所
啄木と明治の札幌
明治19年(1886年)、岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市)に生まれた歌人・石川啄木。
故郷で代用教員に就くも免職となり、新天地を求めて北海道・函館へ着たのは明治40(1907年)5月5日。以降、函館ー札幌ー小樽ー釧路と道内を転々とし、翌年4月24日に東京に向けて北海道を離れています。
北海道の滞在はわずか356日間という短い期間でしたが、後年に出版した啄木の処女歌集『一握の砂』には北海道を回想した多くの歌が収められ、うち5首が札幌にゆかりがある歌として知られています。
札幌を詠んだ歌からは、啄木らしい飾らず率直で心に染み入る魅力に加え、開拓使以降の札幌のまちの成り立ちや明治後期の札幌の情景にふれることもできます。
この記事では、札幌市内にある啄木の足跡を今に伝える史跡や歌碑の紹介とともに、『一握の砂』に収められ札幌にゆかりがある歌とその背景についてまとめていきたいと思います。
① 石川啄木の下宿跡(田中宅跡)
石川啄木が函館から札幌にやってきた際の下宿先となったのが、北7条西4丁目4番地の田中サト宅です。
現在は再開発が進み、高層ビルが立ち並ぶ札幌駅北口エリアにあたるこの場所はすでに往時を偲ばせる風景が失われて久しいですが、跡地に建てられたオフィスビルの入り口に啄木の胸像と案内板が掲げられ、ここがその場所であったことを示しています。
後年、啄木は身を寄せていたこの下宿先での出来事を次の一首に詠み『一握の砂』に収めています。
わが宿やどの姉あねと妹いもとのいさかひに
初夜しょや過すぎゆきし
札幌さっぽろの雨あめ
この歌で詠まれている下宿先の田中宅(=“わが宿”)の姉妹である久子と英子のやりとりについては、啄木の生前未発表の自伝小説『札幌』でより詳しく窺い知ることができます。
小説内では真佐子と民子に名を変えた姉妹が、啄木があげた絵葉書をめぐって取り合う微笑ましい様子が描かれています。
啄木が田中宅に滞在していたのは、函館大火をきっかけに札幌へやってきた明治40年(1907年)9月14日から、新しく創刊される小樽日報の記者に転じるため小樽へ発つ9月27日までのわずか14日間というほんの短期間でした。
しかしこの小説は、札幌が上京後も啄木に好意的な印象を残し続けたであろうことを残しています。
- 営業時間 :
0:00 - 24:00 - 住所 : 札幌市北区北7条4丁目4-3 札幌クレストビル
- TEL : -
駐車場:なし
※近隣にコインパーキング多数あり
札幌駅から徒歩1分
② 偕楽園緑地(北区)の歌碑
偕楽園といえば、日本三名園に数えられる茨城県水戸市にあるものが有名ですが、それに倣った同名の公園が札幌にもあります。
札幌にある偕楽園は、明治初期に開拓使によって設置され、計画的に造成された都市公園としては日本最古のもの。
現在は、その跡地が偕楽園緑地として整備され、平成24年(2012年)には啄木の没後100年を記念して、次の一首が刻まれてた歌碑が建てられました。
アカシアの街樾なみきにポプラに
秋あきの風かぜ
吹ふくがかなしと日記にきに残のこれり
札幌で明治から街路樹として多く植栽されるようになった“アカシア”。
啄木が札幌へ来た頃には、すでにいまの札幌駅前通りや時計台前の北一条通りのアカシア並木(=“街樾”)がまちのシンボルになっていたようです。
また、防風林として植栽される“ポプラ”も札幌らしい情景を浮かばせる樹木です。
この歌は、上京後に札幌時代を回想して詠み『一握の砂』に収めた一首で、“日記に残れり”にあるように、函館から札幌に着いた翌日にはその印象を、[アカシヤの街樾を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、朝顔洗ふ水は身に沁みて寒く口に啣めば甘味なし、札幌は秋意漸く深きなり、]と日記に記し(『丁未日誌』より)、さらに札幌での勤め先となった北門新報の記事(『秋風紀』)にも同様に残しています。
啄木が滞在していた札幌の9月は、日増しに秋が深まる時期。
いまなお札幌を象徴するアカシアやポプラに啄木がみたであろう風景へ思いを馳せつつも、時を経ても変わらない札幌の季節のめぐりにはっとさせられる秀歌です。
- 営業時間 :
0:00 - 24:00 - 住所 : 札幌市北区北7条西7丁目
駐車場:なし
③ 大通公園3丁目(中央区)の歌碑
札幌の観光名所として知られ、市民にとっても憩いの場になっている大通公園は、元々は防火帯として明治初期の開拓期にその北側を官地、南側を民地とする区画整理で設けられたものです。
多くの人が訪れるこの都市公園に、啄木のブロンズ像と次の一首が刻まれた歌碑があることは、観光客はもちろん市民でさえ、案外見過ごしてしまっていて知らない方が多いかもしれません。
しんとして幅廣はばひろき街まちの
秋あきの夜よの
玉蜀黍とうもろこしの焼やくるにほひよ
現在の大通公園の姿は、啄木が札幌に滞在していた明治40年(1907年)に民間人で札幌農学校11期生の小川二郎が自費で花壇を設置したのをきっかけに、明治42年(1909年)からはのちに日本人初の公園デザイナーとして知られる長岡安平が招かれて本格的に整備されたのが始まりです。
とうもろこしを焼く屋台が出始めたのは明治の中頃からとされ、啄木が札幌に来た時にはすでに名物となっていたようです。
その後の戦時中には食糧不足から芋畑へと転用され、戦後は進駐軍に接収され教会が建てられたり運動場へと姿を変えましたが、昭和25年(1950年)に芝生や花壇がある公園としての復旧が始まり、昭和30年代には市民の憩いの場としての賑わいが戻ると再びとうもろこし売りをはじめ様々な屋台が軒を並べるようになりました。
こうして、大通公園はこの歌が詠まれた当時さながらにとうもろこしが香る札幌の人気観光地となったのです。
- 営業時間 :
0:00 - 24:00 - 住所 : 札幌市中央区大通公園3丁目
- TEL : 011-251-0438(大通公園管理事務所)
駐車場:あり
※札幌大通地下駐車場(有料)
④ 天神山緑地(豊平区)の歌碑
地下鉄南北線の平岸駅と澄川駅の中ほどにある天神山は、開拓初期の自然が残る標高89mの小さな山。
明治10年(1881年)、北海道開拓の父として知られるホーレスケプロンの提言に従い、現在の平岸街道沿いの平岸から澄川の丘陵地では西洋リンゴの栽培が始められ、一帯にはリンゴ園が広がっていました。
この地で栽培されていたリンゴは平岸リンゴと呼ばれ、高級品として東京・大阪はもちろんウラジオストクや上海など海外へも輸出されていたそうです。
現在は公園として整備されたここ天神山緑地に、この地でのリンゴ栽培を記念して、啄木が札幌のリンゴ園を詠んだ次の一首を刻んだ歌碑が建てられています。
石狩いしかりの都みやこの外そとの
君きみが家いえ
林檎りんごの花はなの散ちりてやあらむ
平岸でのリンゴ栽培は昭和20年代に全盛を誇りましたが、その後の急速な人口増加や札幌オリンピック冬季大会の開催を機とした宅地化により、徐々にその姿を消していきました。
現在では環状通りの中央分離帯に植えられたリンゴ並木や、リンゴを保存するためのレンガや札幌軟石造りの倉庫にその面影を残しています。
- 営業時間 :
0:00 - 24:00 - 住所 : 札幌市豊平区平岸1条18丁目1
駐車場:あり(無料)
⑤ 橘智恵子生家(東区)の林檎の碑
実は、札幌のリンゴ園を詠った先ほどの歌を刻んだ碑が、市内にもう1か所あります。
この歌は、『一握の砂』の「忘れがたき人人(二)」に収められた22首のひとつで、そのすべては啄木が慕ったある女性を詠んだものです。
この女性こそ、啄木が函館の弥生尋常小学校で教師をしていたときの同僚女性教師・橘智恵子です。
歌にある“林檎の花”が散っていることだろうという“君が家”は札幌でリンゴ園を営んでいた智恵子の実家で、その場所を示す“石狩の都の外”は、先ほどの歌碑がある平岸ではなく、当時は元村と呼ばれていた現在の東区元町にあたります。
このリンゴ園も昭和5年(1930年)に姿を消したようですが、跡地には智恵子の末裔の方によって「林檎の碑」が建てられ、背面には橘家のリンゴ園の由来に加え、この歌が刻まれています。
- 営業時間 :
- - 住所 : 札幌市東区北11条東12丁目2-15
- TEL : -
※私有地につき見学はご配慮ください。
明治の札幌へ思いを馳せてまち歩きを
函館から移って着た啄木の札幌滞在はわずか14日間。函館の132日間、小樽の136日間、釧路の76日間と比べても特に短い期間でした。
しかし、先に紹介したとおり、啄木は印象的に札幌を詠って『一握の砂』に収めています。
札幌にゆかりがある5首のうち、これまでの4首に加え、最後に次の1首を紹介します。
札幌さっぽろに
かの秋あきわれの持もてゆきし
しかして今いまも持もてるかなしみ
この歌からは、札幌の秋の静けさや函館から大火に追われてきた失意、それらが上京後も忘れることができず、現在の自身と重ねる哀愁が読み取れるようです。
もし、啄木がもう少し札幌に留まっていたらどんな歌を残したか、札幌の季節のめぐりをどのように詠ったかーーいま改めて啄木の足跡をめぐって札幌のまちを歩いてみてはいかがでしょうか。